院長のひとりごと

当初は、もう少し花鳥風月を愛でる話や、世相を風刺するようなことを書いていこうと思いましたが、いつの間にか情けない話ばかりになっています。かといって愚痴めいた話はいやなのでこのペースが続きそうです


院長のひとりごと その80

Dec.29.2013

バイト当直の思い出
 


 

 今は開業医としてデンとクリニックにとどまっておりますが、かつて勤務医の頃はアルバイトで収入を得ていたものでした。


 若い頃、定期 収入はほんのわずかなものなので、「当直アルバイト」というものが結構重要な位置を占めておりました。
「当直アルバイト」は定時であるというものは少なく,たいがい同僚から「ちょっとこの日に何処何処のバイトに行ってくれない?」と頼まれることが多かったです

当然ながら忙しい病院はバイト料は良く、ヒマな病院(要するに呼ばれることは殆ど無い)は安かったものです。思い出すのは2つの病院です

まずは巣鴨にあった某病院


四半世紀ほど前、2ヶ月に一度くらい土日の当直を頼まれていました。小さな老人病院で救急はなし。入院しているのは寝たきりの高齢者ばかりというところでした。初めて行った時、エレベーターに乗ろうとボタンを押して待っていましたが、いつまでたっても反応がありません。壊れているのかなあと思ったら、なんと扉を手動で開閉するというものでした。ですから自分で扉を開け閉めしなければならないところでした。
 いつ亡くなってもおかしくないような患者さんがたくさんいました。思わず看護婦さんに「急変時はどうするの?」と尋ねたら「何もしません。自然のままです」とのことでした。「アンビューバッグとかないの?」と聞くと、ガサゴソと棚を探して「ああ、ありました。でも穴が開いて使えません」とのお返事でした。ああ、ここでは急変時に蘇生術などはしてはいけない場所なんだと妙に納得したものでした。
 仕事は本当に、ただいるだけでした。入院患者は80名位だったような気がしますが物言わぬ寝たきりの方ばかりでした。大部屋などは10人位寝ていて一番奥に100円を入れて動かすテレビがちょこんと一台置いてあったのを覚えています。当然テレビを見るような方はだれもいませんでした。日曜の昼間などはヒマなので天気が良ければ看護婦さんに「何かあったらポケベルで呼んで」(当時はポケベル全盛時代、携帯なんてありませんでした)と声をかけて2時間位、お散歩していたものです。バイト料は安かったけれどもほんとうに楽なお仕事でした。


 その後、しばらく経って全面改装?するとかで、ここの病院のお仕事はなくなりました。


 先日、何気なくネットでこの病院のことを検索したところ、なんと2年前に閉院となっていました。まあ、何となく納得できるような気もしています


 
 次は練馬区東大泉の某病院
 
 ここも不定期に当直を頼まれていました。はっきりいってボロボロの病院でした。かかりつけ以外は救急外来はやらない老人病院でした。基本的には先の病院と同じく「いれば良い」といった病院でした。ここは2階建てか3階建てだったか忘れましたがエレベーターが無かった病院です。「患者さんを移動させる時はどうするの?」と尋ねたところ「担架に乗せて運びます」とのことでした。看護婦さんが「イチにっ、イチにっ」と掛け声をかけながら患者さんを担架に乗せて階段を降ろす姿は感動的?でもありました。


 病院当直の際には夕食は「病院食」が用意されていることが多いのですが、一度ここでは「病院食」が腐りかけていたことがありました。ちょっと驚きものでした(でも遅れて行ったので文句も言いませんでした)。4年ほど行った記憶がありますが、夜間にかかりつけの患者さんの救急診療を行ったのは1、2回だけだったと思います。


 ここの病院も日曜のお昼などは暇だったので、お散歩に出かけたりしたものでした。日曜の昼間などは駐車場で車の洗車していることもありました(同僚の中にはゴルフの打ちっぱなしに出かけ帰りに一杯やってくる強者もいました)
 
 この病院は、しばらくしたら一旦閉鎖され全面的に建てなおされました。取り壊されて更地になった場所を見た時は大層驚いたものです。現在は全く新しい病院に生まれ変わったようです。経営者も変わったようでおそらく昔のようなのどかな?当直はなくなったのだろうなあと思います。
 
 この2箇所の病院の話はいずれも20年以上前の話ではあり現在の話ではありません。それにしてものんきな時代だったのでしょうかね?同時期でも忙しい病院はほとんど眠れないような病院もありました。まあイロイロなんですね。