院長のひとりごと

当初は、もう少し花鳥風月を愛でる話や、世相を風刺するようなことを書いていこうと思いましたが、いつの間にか情けない話ばかりになっています。かといって愚痴めいた話はいやなのでこのペースが続きそうです。


院長のひとりごと その69

Aug.4.2008


追悼 赤塚不二雄

 

昨朝、ニュースをみていたら漫画家の赤塚不二雄氏が亡くなったとのことであった。もとからこの数年寝たきりとの情報を得ていたので、特に今更といった感慨はなかった。

 しかし赤塚不二雄と言えば私の少年時代にとってはギャグマンガの王様!といったイメージがあります。

 幼稚園の頃は「オバケのQ太郎」のような、どちらかというと「ほのぼの」とした漫画が身近だった私に少年サンデーに連載されていた「おそ松くん」のような破壊的なギャグマンガは衝撃的でした。

 私が「おそ松くん」を読み出したのは確か松戸に転居してからだから小学生になってからだと思います。ちょうど作品としてはピークを迎えた頃だと思います。
 当時、漫画はまだまだ「子供の読むもの」であって「漫画ばかり読んでいると馬鹿になる」と怒られたものです。

 今でこそ古典扱いですが、当時はすぐに殴り合いのケンカになるし、子供にこずかいをあたえて買収させるようなシーンが多々あり「こどもに金勘定をさせるのは不道徳!」「下品だ」などと決して社会的には評価はされなかったように思います。

 けれども基本には映画や文学作品があることに気づいたのはずっと後のことでした。作品の中にはO.ヘンリーの作品からヒントを得ていると思われるものが結構ありますし、チャプリンの映画である「街の灯」をもろにパクったとしか思えない作品もあります。今だったらきっと盗作騒ぎになったことでしょうが当時は何ら問題にもなりませんでした。これはまだ当時は著作権意識が乏しかったことと、漫画に対する評価も低かったことがあるのでしょう。

 なんにせよ赤塚氏の作品の背景は様々な映画、文学作品が根底にあり、当時マンガ家と言えば社会的地位はまだ低く、「馬鹿者」のように言われていた節がありましたが実は想像以上に博学であったことが伺えました。

 ギャグマンガ家がいかに消耗してしまうものかと実感させられたのも赤塚不二雄でした。

 「おそ松くん」も連載末期にはアイデアが枯渇したとのことで、毎週連載されていたものが月に一回の連載、ただし一回50ページという当時としては異例の連載となっていました。
 やがて昭和42年にライバル紙である「少年マガジン」に「天才バカボン」の連載が始まりました。そちらにエネルギーを傾けだしたのか「おそ松くん」のテンションは下がり気味のようでした。

 昭和43年か44年だったと思いますが、「おそ松くん」の連載が終了し少年サンデーでは新たに「もーれつア太郎」が始まりました。

 どちらの作品もヒットとなりましたが、数年後には両者とも連載終了となりました。どちらも面白かったのに連載が終了したのは不思議でした。

 それからしばらくしてマガジンではなく、サンデーに「天才バカボン」が再開となりました。個人的には「天才バカボン」が本当に面白かったのはこの頃までだったと思います。

 やがて「天才バカボンは」昭和46年頃に少年マガジンに活躍の舞台を再度移し連載が始まりました。この時、私は小学生の高学年でしたが、この時代のバカボンに関しては面白いけれども以前ほどの「楽しさ」は感じなくなりつつあり「毒」ばかりが目につくようになってきました。私が中学校に入学した前後にはバカボンはテレビでも放映され、雑誌での人気もピークだったような気もします。でも逆に私は次第に興味が薄れ、漫画自体を読むこともなくなりました。

 天才バカボン自体も、やがて連載が終了しましたが末期は内容もかなり荒れていたような気がしました。たまに立ち読みや回し読みでみる機会がありましたが、「ひどいもんだなあ、もうダメだな」といったのが率直な感想でした。
 それ以降は目立った活躍をマガジンですることはなくなり、一時、大工さんをテーマにしたギャグでない漫画を連載したこともありましたが特に話題になることもなく短期で終了しました。また、サンデーでも新しい連載をしていましたが。たしか「少年フライデー」だったかなあ?内容は昔のほのぼのとした感じが当初あったようですが、逆に人気が今ひとつだったのか途中からメンバーがそっくり入れ替わってしまうという状況になり(当時の説明では、「あいつらは死んじゃったよ」との一言で主人公が入れ替わってしまうと言う殺伐としたものでした)、連載自体も長続きはしなかったように思います。

 以降は少年誌からは作品が次第にみられなくなり、青年誌に活躍の場を移しましたが、作品自体は「毒」ばかりが目につくようになり、面白いけれど楽しめなくなりました。その頃赤塚不二雄自身は飲酒量が多くなり、生活自体も荒れているようでした。

 この時代には少年誌では山上たつひこの「がきデカ」や鴨川つばめの「マカロニほうれん荘」などが人気がありましたが、どちらも末期はマンネリがひどく特に鴨川つばめは精神的に病んでいるのでは?と思わせるほど悲惨な状態でした。「ギャグマンガ家は人気が出ればでるほど最後は悲惨な状況に追い込まれる」と感じさせられました。

 平成時代になってからは、赤塚不二雄はすっかり第一線から姿を消したようになり、たまにテレビや雑誌で姿を見かける程度でした。ただ、いつだったか「豆まきの鬼のお面」が赤塚氏の手によるものを発見したときは嬉しいような、もの悲しいような不思議な気分でした。再び少年誌で活躍してくれないかなあと淡い期待を抱きましたが、テレビで見かける姿はアル中の手が震える寂しい姿でした。
 
 結局、赤塚氏は再起することなく病に倒れ、長らく寝たきりとなりとうとう逝去されました。

 ギャグマンガの場合、長期連載を保とうとするとどうしても「毒が抜けてしまい」一家団欒的な無難な路線を取らざるを得なくなるのに対し、赤塚氏は最後まで「毒を維持」しようとしましたが、今度は「毒」だけになってしまい、「適度な毒と楽しさ」を維持することはできなくなり最後は自身の「毒」にやられてしまったような気がします。

 赤塚氏死去のニュースを見るにつれ、あの楽しかった時代を思い出すとともに色々なことを教えてくれた赤塚氏のマンガに感謝しつつ、多くの毒のある(あった)ギャグマンガ家の消耗ぶりに自分自身が破滅していくといった環境に厳しさをひしひしと感じるのでした。