院長のひとりごと

当初は、もう少し花鳥風月を愛でる話や、世相を風刺するようなことを書いていこうと思いましたが、いつの間にか情けない話ばかりになっています。かといって愚痴めいた話はいやなのでこのペースが続きそうです。


院長のひとりごと その60

Feb.17.2007


もしもピアノがひけたなら


 自慢じゃないが私は楽器は何一つ満足に演奏できません。だいたい楽譜が読めません。でも音楽自体は好きです。以前後輩の結婚式に招かれたとき余興で知人のドクターが、それは見事なサックス演奏されたことがあり、つくづく「ああ自分も何か楽器が演奏できたらいいのになあ、、、」と思うことしきりでした。

 さて、何で私はこんなに楽器演奏ができないのであろう。そういえば姉はピアノを習っていたなあ(当時は女の子にはピアノを習わせることが流行っていた)等と思っていたら、クルクルクルクルとはるか昔のことを思い出しました。

 あれは確か千葉県市川にいた頃だから、まだ4歳くらいの頃の出来事だったのでしょう(引越が多かった私はこうやって、その頃の年齢を推定できるのです)。記憶もかなりあやふやなところがありますが、たぶんそうだと思っています。

 当時姉はピアノを習いにどこかに通っていました(場所は忘れた)。とある日、理由は覚えていませんが母親と3人でピアノ教室に出かけました。おそらく物珍しがって私も一緒にいきたがったものと思われます。
 姉がピアノのレッスンを受けている間、私はたぶんじっと待っていたと思うのですが暇を持て余していたのでしょう、ピアノ教室の近所のおばさんがやってきて私の相手をしてくれました。いきさつは覚えていませんが、そのおばさんはピアノ教室の隣あたりに住んでおり私を家に連れて行き、その家のピアノを触らせてくれました。ピアノ教室ではピアノは当然のごとく生徒しか触れないので私はそのおばさんの家で存分にピアノを触って鍵盤をたたいていました。他にも子供がいたような気がしたので、おそらくそのおばさんは自分の子供を連れてレッスンに来て、暇そうにしている私を見つけて相手をしてくれたのでしょう

 そのおばさんの家でピアノを演奏?し、おばさんに「じょうず、じょうず」とおだてられいるうちに自分でもその気になって「ボクもピアノを習おうかな」と思い始めました。そうして「ボクもお姉ちゃんと一緒にピアノを習うんだ」とすっかりいい気になって姉たちが待っているはずのピアノ教室に戻りました。

 ところが!!いるはずの姉と母親はいません。それどころか私が隣の家にでかけた事を知らなかったようで私がいなくなったと大騒ぎをして探しに行ったとの事でした。

 現代ならば携帯電話で連絡を取るのでしょうが、当時はそんなものはあるはずもありません。それどころが昭和三十年代末の一般家庭は電話すらないのが普通でわが家にも電話はありませんでした。ですから連絡の取りようがありません。私はわけが分からずキョトンとしていたような気がします。

 あとで聞いた話ですが当時は「吉展ちゃん事件」という知る人ぞ知る戦後初?の営利誘拐殺人事件があったこともあり(私も覚えています)、母親は私が誘拐されたかも知れないと心配して父親の勤務先に電話を入れ、父親も慌てて会社を早退したそうです。

 ピアノ教室の先生も、隣のおばさんもどうしていいのか分からなかったようで結局私はお巡りさんに預けられる事になったのです。その時はそれまで優しかったおばさんたちが急につれなくなったような印象があります。やって来たお巡りさんは親切だったと思いますが、つないだ手は大人の男のごつい手でありちっとも気持ちが良くなかったものです。お巡りさんと手をつないで歩いていると、何だか泣かなくてはいけないような気がしてきて(別に悲しい気分では無かった)仕方なく?泣いていたような気がします。そうしているうちにどうやって連絡を取ったのかはわかりませんが、無事母親たちと合流する事ができました。

 その頃には私はどうやらとんでもない事になったということも理解できていたのでしょう。大泣きしていたような気がします。おかげでピアノを習いたいという気分を雲散霧消してしまい、ピアノ教室に一緒にいくという事も二度とありませんでした。

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 もしあの時迷子騒ぎが起きなければ私は姉と一緒にピアノを習っていたかもしれません。そして途中で辞めてしまうにしても少しくらいは演奏のまね事くらいできるようになったのでは無いかと思います。まかり間違えばピアノコンクールにでるくらいの腕前になったかもしれません(そりゃないか!)
 しかしあの事件のために私から「ピアノを習う」という意志は消えてしまったのです。その結果?楽譜も読めない今の私がいるのです。