院長のひとりごと

当初は、もう少し花鳥風月を愛でる話や、世相を風刺するようなことを書いていこうと思いましたが、いつの間にか情けない話ばかりになっています。かといって愚痴めいた話はいやなのでこのペースが続きそうです


院長のひとりごと その107

November.29. 2025
 

 高校に入学して50年が経ちました

 

 気がついたら高校に入学して50年が過ぎました。
私が入学したのは[千葉県立小金高等学校]というところでした。なぜにそこに進学したかというと、自宅から通学できて偏差値などをみて、「ここならよかろう」と深く考えずに決めたのでした。現代と異なり、なんとも呑気な話です。なにせ入学試験まで行ったこともないところでした。高校はまだ新設校で私は第11期生という立場でした。


 いまでこそ周辺は街となっていますが、元々は一面田んぼで、田んぼを埋め立てて作られた土地でした。最寄りの駅は「新松戸駅」というところでしたが、駅から高校まで1.5kmあるのに、高校までは建物一つなく広大な空き地でした。現在利用している方には信じられないかと思われるかもしれませんが、なにせ駅から高校が見えるのです。高校まで遮るものが何一つなかったのです。

 もともとは田園地帯ですから水はけは悪く、雨が降ると水たまりだらけになりました。そのため長靴は必需品で「学生服で長靴を履いていれば、ソレは小金高生」と言われたとか言われなかったとか。

 新松戸駅も当時は新しく造設された駅でした。ここも水はけは悪く大雨が降ると駅の低い部分は浸水していました。そうしたときはスノコが設置され、そこを歩いたものでした。
 
 当時、新松戸駅は武蔵野線の終点でもありました。月に何回か週末になると松戸競輪が開催されていました。開催日になると耳に赤鉛筆を挟んで競輪新聞を持つおっちゃんたちが武蔵野線のオレンジ色の車両から、ぞろぞろと降りてきて乗り換えのために私が利用する常磐線のホームに並ぶのでした。気のせいか何やらすごみのある方が多いようで、中には小指がない人もいて、なんとも怖かった記憶があります。


 さて駅を降りて歩くと何もありません。店舗は一件もなく、駅前に古いバスを利用したラーメン屋があるだけでした。それもじきになくなりました。バス等もなく、唯一あるのが「流山電鉄」の線路です。単線でボロボロのキャラメル箱みたいな2両編成の電車(現代はそれなりに立派になっているようです)がのんびり走っていました。アホな学友は線路の中を歩いたり、挙句の果ては電車向かって戦法から警笛をならされたりしていました。

 学校自体は至極のんびりしたもので校則もユルユルでした。かと言っていわゆる「不良」はいませんでした。学業もユルユルでした。そういった意味ではとても自由な雰囲気はありました。そのためか「小金校生は入学するときは優秀だが卒業する頃にはバカになっている」といった感じでした。
 卒業後の進路は進学希望者が大部分でしたが、なにせ勉強していないので皆さん悉く討ち死にして浪人するというのは大部分でした。「浪人するのが当たり前」と言った感じでした。私も浪人して初めてまともに受験勉強を始めた口でした。でもみんな地頭は悪くなかったようで翌年には、皆さんそれなりの大学に進学していました
 高校時代は部活にも入らず、好き放題やっていました。それはそれで楽しかったのですが、今思えばもっと欲張った高校生活を送ればよかったのかなと思ったりします