院長のひとりごと

当初は、もう少し花鳥風月を愛でる話や、世相を風刺するようなことを書いていこうと思いましたが、いつの間にか情けない話ばかりになっています。かといって愚痴めいた話はいやなのでこのペースが続きそうです。


院長のひとりごと  その22

Sep.23.2003

氷解

 最近DVDやケーブルテレビ(実家にあり自宅にはない)で昔懐かしい番組を目にする機会があります。
 昔懐かしい番組を久しぶりに見直して、子供の頃から疑問に思っていたことが今になって理解できた事がいくつもあります。 
例えばサンダーバードの歌詞。「♪青くー光るーxxxの海」というのが「♪青く光る広い海」というのがようやく分かったとか。
キャプテンスカーレットで「了解」と言うことを意味するのを「S.I.G]と言っていましたが、これが「Spectrum Is Green」いうフレーズの頭文字を言ったものであることを約30年ぶりに判明したのでした。(なぜか子供番組ばかり)

しかし何といっても最大の収穫は以下のことです。
米国海軍の戦闘機にF14TOMCAT(トムキャット)という機種があります。私は昔から飛行機大好き人間であり、トムキャットが初飛行した1972年ごろから知っていました。F14 はグラマンという会社が作ったものであり、グラマンというと年配の方には色々と思いでのある会社だそうです。面白いことにグラマン社の作成する飛行機は皆、猫類の名前がつきます。F4Fワイルドキャット、F6Fヘルキャット、F8FベアキャットなどとつづいてF14トムキャットに辿り着きます。トムキャット以前の名前の意味は何となく分かっていましたが”トムキャット”だけは意味が分かりませんでした。何かの語呂合わせでもあるのかしらと漫然と疑問に思いつつもはや30年が過ぎました
  
 年月を経て、おっさんになり、子供もできました。子供が大きくなるに連れ、何か子供用にビデオなどでも買ってあげようかと思い、最初は「きかんしゃトーマス」を買ったりしていました。ある日DVDの昔懐かしい「トムとジェリー」を発見いたしました。ああ懐かしい、小さいころ(60年代半ば)によく見たなあと感慨に浸り、これならば子供にも良いであろうと勝手に思い購入しました。家に帰ってチビと一緒に見ていると、とても楽しい。何気なく見ていると、とあるエピソードでトムとジェリーのポストが出てきました。そこには名前が書いてありました。ジェリーは「Jerry Mouse」とあります。一方のトムはいえば「Tom Cat」とあります。これを見て全身に衝撃が走りました!!?。「こ、これは!!!」そうです。まさしくトムの名前は「トムキャット」(正式名はトーマスのようです。これも初めて知りました)なのでした。これこそ「F14トムキャット」の名前ではありませんか!!30年来漠然と疑問にいだいてきたことが一気に氷解しました。F14トムキャットの名前はトムとジェリーの猫の名前をとったものなのであろう!!私の解釈は間違っているかも知れませんが、何だかとても嬉しかったのです。

 さっそくこのことを誰かに言いふらしたくて仕方がありません。けれど中学生の頃ならまだしも、40を過ぎて戦闘機の名前の由来などに興味を持ってくれる人は周囲にはいません。うーん、残念だと思っていたところ、一人だけ同年代で同じような趣味を持っている人を発見!さっそく報告に行きました。

これを読んでもよく理解できない方も多いと思いますが、どうしても書きたかったのです。ごめんなさいね。

 それにしても30年ぶりにわかったことが「トムとジェリー」とは情けないです。もうちょっと高尚な発見でも出きればよいのですがねえ。

 


院長のひとりごと その21

Aug.28.2003

仮面ライダー

 先日チビと一緒に仮面ライダー555(これでファイズと読ませる)の映画を見てきました。
私は年齢的に初代仮面ライダーが放映されていたころには、すでにそうしたヒーロー物を見なくなっていたので、(同級生には夢中になっているヤツもいましたが)実は仮面ライダーシリーズを見るのは初めてなのでした。でも考えてみると仮面ライダー(初代)は一度も見たことが無いのになぜか主題歌は憶えています。とにかく大ブームで、こどもたちが「ライダーキック!」と叫んで走り回っていたのを憶えています。

 555ですが感想をひと言で言うと面白かった!。子供向けの映画と思って侮っていたら、とんでもありませんでした。
よく練られており、特撮もコンピュータグラフィックス(CG)をふんだんに使っており昔のヒーロー物のように、いかにも「ヌイグルミ」といったものは見当たりません。
ストーリも、大人が見ても十分に面白いものでした。それそれの部分は以前どこかで聞いたことのあるような内容でありましたが、全体としてはよくまとめられており、思わずもう一度見てもいいなと思ってしまいました。
しかもテレビとは別物として作られており、単独で見ても十分楽しめるものでした。

さて、現在放映中の仮面ライダー555ですがこれもよく出来ています。
敵?の造形もよくできています。デザインも凝っており、CGとの組み合わせにより、微妙な表現が可能となっています。昔はいかにも中に人が入っているというのが一目瞭然でしたが、今のものはCGとの組み合わせで自然な表現がなされています。
欠点?としては、どれもモノトーンであり、昔の極彩色の[敵]とは異なるので相手が複数の時など漫然と見ていると見分けがよくつかないということがあります。
 
 現在の555の前は「仮面ライダー龍騎」という番組でしたが、これはホントによく分からなかったです。8月ごろという放映の半ばほどから見始めたので構成が全然分からないということがありました。毎回見ていたわけでもありませんでした。そのためミラーワールドという、いわゆる「パラレルワールド」の中で変身するらしいということを理解するのに暫く時間がかかりました。

なにせ昔のイメージとは全く異なります。ライダーが10名以上もおり、何だか内ゲバみたいにいつもお互いに戦っており、何が何だか分からないうちに終了してしまいました。最終回も見ましたが ????のうちに終わってしまいました。
 結局、全体像は最後までつかめませんでした。

 でも幼児番組に「パラレルワールド」の概念が持ち込まれているのには驚いたりもしました。

今回の555は第一話から見ていたので今度は理解できると思っていましたが、それは甘かったようです。
 これもストーリが複雑でこれもよく分からない。 放送を一度見ただけでは理解不能です。しかも毎回、見ているわけではないのでますます分からなくなります。暫く理解不能なまま、チビにつきあって漫然と見ていたので大して面白いとは思っていませんでした。チビも大して熱心に見ているようには見えませんでした。

 単純な勧善懲悪ではなくライダー自身も昔の「正義の味方」とはイメージが異なるようです いわゆる敵方も味方?も正体がよく分からない。敵?はオルフェノクとかいうらしいのですが(8月になってようやく理解)、これも敵と味方があるようですし、そもそもライダーがどうして生まれてきたのか未だに不明です。初代仮面ライダーのように由来がはっきりしておりません。


 そもそも初代仮面ライダーよりもさかのぼれば、こうした主人公はマントをまとった天才科学者がつくりあげたと相場が決まっていたものです(例えばエイトマンの谷博士など)。それに比べるとなんと複雑になったことでしょう。

 ところが!!7月のある日、突然チビ助が仮面ライダーに目覚めてしまいました。それまで電車とサンダーバードばかりだったチビが急に「ファイズ、ファイズ」と言い始めました。

「何で急に仮面ライダーが好きになったの?」と尋ねてみたところ「自分が仮面ライダーに変身した夢を見た(何と単純!)とのことです。何と単純明快な答えでしょう。その日からチビ助の頭の中に「仮面ライダー」が居座るようになったのです。以来、毎回番組を見るようになりました。

 さらに先日、チビがおばあちゃんに仮面ライダーの本を買ってもらいました。私もそれを読んでみたら少しずつ構成が理解できてきました。構成が理解できてくるようになると番組が急に面白くなってきました。

 でも、今の子供はこんなに複雑なストーリーを果たして理解しているのでしょうか?と疑問に思ってしまいます。


うちのチビはというと単純に「かっこいい」と言っているだけで、どうも内容を理解しているとは思えません。ライダーベルトをつけて「ヘンシン!」と言って踊っている姿を見ると、昔の子供と変わりありません。
私はというと、先日子供のおみやげにと言って本屋で仮面ライダーのストーリ本を買ってきて、勉強?しています。本を読んで、さらに構成がわかってテレビを見ると、「ウン、納得」。チビと一緒に番組を見ています。

私はそれまで基本的にテレビはニュースと天気予報しか見ていなかったので、もし「今見ているテレビ番組は?」と聞かれたら「仮面ライダー555」とその前に放映されている「爆竜戦隊アバレンジャー」です、と答えなくてはならないのでしょうか??

私の頭も幼児並ということなのでしょうね?

まあクリニックに来る子供たちと共通の話題が出来たので良しとしましょう。

それにしても「恐るべし!今どきの幼児番組!」といったところです

追伸:あまりチビ助に「ライダーベルト」を買って!とせがまれたので買ってあげました。それをさっそく身に付けて「へんしん!」とやったところ、なんだかキョトンとしています。

「どうしたの?」と聞いたところ

「変身しないよ」と言います。どうやらベルトをつけると本当に変身できると思っていたようです。(後で本人は否定していましたが、どうもアヤシイ!)

 


院長のひとりごと その20

Aug.15.2003

痛い痛い痛い

それは6月のムシムシした日のことでした。お昼休みを利用した往診を終えて一休みしていたときのことでした。さて、そろそろ午後の診察の時間かな?などと思っていると、突然右の腰にズキズキと嫌な痛みが走りました。あれあれこれはもしかして??などと思っていると、瞬く間に痛みは増大し、とんでもない痛みとなってきました。

「こ、これは!!」そうです。実は私は尿路結石の既往があり、まさしくその痛みなのです。とにかく痛い。例えに「お産の痛みに匹敵する」とか「この痛みに耐えられる人はどんな拷問にも耐えられる」とかがあります。


私は当然、痛みに耐えられません


一応診断をつけようと思いトイレに行きました。尿路結石の場合にはおしっこに血が混じるのです。で、トイレに行きましたが痛みのためかなかなかおしっこが出ません。何とか排尿すると、それはもろに血尿でした。ポタポタと血が混じったおしっこをするのは気分の良いものではありません。とにかく!!午後の診療開始まで後30分しかありません。とてもこんな状態では診療どころではありません。

 まずは座薬の痛み止めを入れました。理屈では30分くらいで効いてくるはずです。でも後10分で診療開始となっても一向に良くなりません。それではとブスコパンという注射薬をブスリと看護婦さんに打ってもらいました。ここで時間切れ。幸か不幸かその日は患者さんがものすごく少ない日でした(その月で最低でした)。きっと暫くヒマだろうと思っていると3時ちょうどに患者さんがやってきました。でも馴染みの人なので多少会話がラフになっても大丈夫な方です(痛くて痛くて丁寧な受け答えが出来ない状態でした)。どうにか診察を終えましたが、痛みはひどくなるばかりです。

 これではにっちもさっちもいかないということで、今度はペンタジンという麻薬に次いで強力な痛み止めを看護婦さんに打ってもらいました。5分位すると少し痛みが和らいだようです。そこで別の患者さんがやってきました。幸いこの方もお馴染みの方でしたので助かりました。こちらは痛みのため脂汗を流していますが、患者さんはそんなことは気がつかないようで(気がついても困りますが)延々と長話を始めました。元気なときならいくらでもおつきあいするのですが、痛みが少し和らいだとはいえ、まだまだ痛い状態での長話のおつきあいは無理です。適当に話をさえぎってお帰りねがいました。するとペンタジンが効いてきたのか眠くて仕方がありません。幸い患者さんもいないので一眠り。

15分くらいで目が覚めました。痛みが無くなっており、「やったね」と喜んで立ち上がったところ足がもつれます。これはペンタジンの副作用です。事務員に話しかけると舌がもつれます。ああ、まだペンタジンが効いているんだと実感します。なんてしていると、別の患者さんが登場。なにせ舌がもつれるので一語一語ゆっくりと確認しながらお話しました。ペンタジンのせいで頭もぼんやりしています。でも痛みが無い分いいやなどと思っていました。

 ところがです。ペンタジンの効果はそう長くは続きませんでした。2時間くらいでまだズキズキと痛みが始まりました。

 痛い痛い痛い、痛って、痛て、イデデ、イデデ、イデデヨー♪と思わずハリーベラフォンテの「バナナボード」が頭によぎってしまい、こんなに痛いのにお馬鹿な連想が出てくるんだろうなどと我ながらイヤになってしまいます。

 どうにもたまらないので再び座薬→注射を試しますが全然効きません。仕方がないので再びペンタジンを打ちました。普通の人ならばこんなにたくさん薬は使いません!!が、私は180cm体重82kgと体格だけは規格外なので、普通の日本人向けの投薬量では効果がないんだろうと勝手に納得してお薬を使いました。

しかし今度はなかなか効きません。脂汗を流して耐えますが、耐えられません。またも患者さんがやってきましたが、もうまともな診療にはなりませんでした。少しでも水分をとって石をおしっことともに流してしまおうと思って水をガバガバ飲んだところ、気持ちが悪くなって全部吐いてしまいました。

 「もーダメ!本日は診療中止!!!」と言って通常より30分早くクリニックを閉めました。看護婦さんに点滴をしてもらうことにしました。こういうときは点滴をしてジャンジャン水分を入れるのが一番です。その時患者さんならぬ薬屋さんが来ましたが私のただならぬ気配を察していそいそと帰っていきました。

 またも座薬を入れて点滴をガバガバ入れると漸く落ち着きました。結局その日は座薬を4-5回使用したような気がします。

帰り道は車を運転しながら、ときおり走る痛みに対し「イテーヨ、イテテテー♪」とバナナボード??を口ずさんでいました。頭の中は気を紛らわせようと「そういえば母親は初めてこの歌を聴いたとき、南の島で黒人が実際にバナナを採りながら歌っているものだと思ったそうだと言っていたな、とか この曲は年配者には浜村美智子のイメージが大きいようだが、私にはドリフターズの{8時だよ、全員集合}に出演していたゴールデンハーフというお姉ちゃん達が歌っていたというイメージが強いなあ」などと、ホントにどうしようもないお馬鹿なことばかり頭の中を巡っていました。

軽い痛みは暫く残りましたが今はすっかり回復しました。でもそのうちまた起きてくるかも知れず困ったものです。
 

 


院長のひとりごと その19

July.25.2003

お酒の話

 私はお酒が飲めません。飲まないのではなく、飲めないのです。情けない話ですが麦酒コップ一杯で真っ赤かになってしまうのです。しかもそれだけではなくそれ以上飲むと数時間後には頭が痛くなりゲロゲロ吐いてのたうち回ることになるのです。

  学生の頃は悪友達がそれではいかん!ということでしばし居酒屋に私を連れていき、特訓と称して飲まされました。かろうじて麦酒数杯はのめるようになりましたが、医者になって忙しくなると居酒屋どころではなくなり、それにしたがい飲酒の機会も減りました。そんな具合でたまに飲む機会があると、すっかりアルコールが抜けた体にお酒は強烈にこたえて再びゲロゲロ状態でした。まあ無理して飲むのは20台の頃でして、三十路を超えてからはもう鍛えるのは諦めて無理に飲もうとするのは止めました。

 
学生時代に法医学の実習でアルコール負荷による血中のアルコールの変化を見ることがありました。その時は周りが面白がって私に焼酎を少し飲ませました。そうしたところ最初は陽気だった私が限界を超えたらしく、その後しばらく暴れたようです。私は180cm、当時は今よりスリムでしたが75kg程度の体重がありました。暴れる私を取り押さえるのは苦労したらしいです。私は記憶が無くなっており、はっと気がつくと応接室のソファに横になっており、腕には点滴がつながれていました実習の結果では血中のアルコール濃度は他の人と同様の時間で減少していましたが、アセトアルデヒドの濃度は他の人の20倍の血中濃度でした。

 簡単に説明しますと、通常飲んだアルコールは体内で分解されてアセトアルデヒドという物質に変わります。それがさらに代謝されていきます。このアセトアルデヒドという物質が二日酔いなどの原因とされています(厳密には異なるようですが)。お酒に強い人はこのアセトアルデヒドが速やかに分解されるため、血中濃度は低いのです。要するに私は飲んだお酒が分解できない体なのでした。ちなみに私が暴れたためか、アルコール負荷実習は以後中止になったそうです。

 看護婦さんはお酒に強い人も少なからずいました。そうした方々は私がお酒が飲めないというと「お酒の楽しさを知らないなんて、そんな人生つまらないわ!」と冷ややかに言い放つのです。こちらは「お酒が無いと楽しめない人生なんて、そちらのほうがつまらないよ」と言い返しますが、「フフン!」と軽く鼻であしらわれてお終いです。

この血筋は母方の祖父から受け継いだもので、このおじいちゃんも全く飲めない人でした。梅酒で真っ赤になるような人でした。それでも99歳までぼけることもなく元気で天寿を全うした人でした。祖父が90歳のころ尋ねたことがありました。これだけ長生きして元気な人のコメントならば信頼できるであろうと聞いてみました。私「おじいちゃんはお酒が飲めないけれど90年の中でお酒が飲めないことで良かったことと悪かったことのどちらが多かったの?」
私は祖父から少なくとも「飲めなくても別に何でもなかったよ」との返事が聞きたかったのですが、帰ってきた言葉はそうだな、どちらかというと損したことの方が多かったなあ」ああ無情、私はこれからも損することが多い人生を送らなければならないのでしょうか?ガックリしました

 


院長のひとりごと その18

ドイツ珍道中(後編)


 2,3日は生活の準備、大学のオリエンテーションなどで終わりました。さて私はどうしようかななどと思っているとボスが「せっかく日本か友達が一緒に来ているのだから、少し観光に行っておいでよ」と言ってくれました。これ幸いとH先生と一緒に出かけることにしました。


 ハイデルブルグ、ローテンブルグ、ベルリン、フランクフルトなどを巡りました。ガイドもろくにないので観光名所は見落としも多いと思います。でも当たり前の観光地ではさすがのH先生も当たり前の行動しか出来ないようです。

しかし!

某有名美術館に行ったときのH先生の感想。
ひとこと「これはいくらで売れるのかなあ」
いかにもH先生らしい感想でした。
 
 ベルリンでのことです。夜の街を歩くと一目で「街娼」とわかる女性が町のあちこちに立っています。H先生「おい、話しかけてみようよ」と言い出します。(誤解があるといけないので言っておきますが単にいわゆるインタビューをしてみる、というだけです)それでもいかにも怪しげな女性達です。さすがに「止めましょうよ」と言ってどうにか諦めさせましたが、放っておいたら何をし出すのかわからないのがH先生です。


 それじゃ飲みに行こう、ということになりました。H先生は適当に地下の飲み屋に入っていきます。一軒目はディスコ?で店にはQueenの「We will rock you]の音楽が流れ、若者が床に転がって踊っています。さすがにH先生も「ここはヤバイ」と言って店から出ました。ドキドキしちゃいます。

 2件目に入ると用心棒と思われる身長が2メートル程ある大男が入り口にいます。用心棒がいるならば逆に安全かも知れないと考え、その店に入りました。でも小心者の私は少しも落ち着けませんでした。不安一杯の私はH先生を残して先に店を出てホテルに戻りましたが、H先生はしばらく楽しんでいたそうです。

翌日かのブランデンブルグ門の所に行きました。西側は奇麗ですが東側は薄汚い印象でした。門の東側には怪しげな露天商がたくさんいます。不思議と西側にはいません。
 ここに来てH先生の本領発揮!!売っているものが怪しければ怪しいほどH先生は興奮状態。

 まずはスターライトスコープ。暗やみでも物を見ることが出来るという暗視カメラです。どうやら旧ソ連軍の横流し品のようです。売人は身振り手振りで「ソ連の保証書」もついていると言いますが、ソ連が崩壊した時分に保証書を見せても意味がないじゃん!と思いつつ、見ていました。
 
さらに銃剣!!要するに鉄砲の先にとりつける剣です。これも当然旧ソ連軍の横流し品のようです。売人はさかんにアピールします。刃の背中はノコギリになっていて何でも切ることが出来ると言います。と思い気やいきなり後の街路樹の枝をその銃剣でスパスパと切り落とし「どうだよく切れるだろう!」と自慢しだしたのにはびっくりしました。
 
他にも崩壊したベルリンの壁の破片なども売られていました。話をすると大概トルコなどから出稼ぎに来ているとのことでした。

 ふとH先生はどこにいるのであろうとあたりを見渡すと、なんだか10人くらいの行商人?に囲まれています。ケンカでもしているのかしら?とちょっと心配になりましたが、そんな雰囲気でもない。まあいいやとほっときました。暫くするとH先生は意気軒高してやって来ました。

 私 「一体、何をやっていたんですか?」

 H先生「はっはっは、この電子辞書をみせびらかしていたんだ。英語ードイツ語などの翻訳をして見せてやったんだ。あいつら、さすがジャパンだといって驚いていたぜ」

 私 「で、なにか収穫はあったのですか?」
 H先生 「いや、それだけだけど

どうやらH先生は電子辞書を自慢して、それで満足していたようです。ベルリンまで来て電子辞書の自慢!というのもなんですねー。

でも私もスターライトスコープを買ったりしたので人のことはあまり言えません。


数日後、私は一人で日本に無事帰って来ました。H先生も3年ほどドイツに留学した後帰国しましたが、「ドイツ人は皆、オレの手下にしてきた」と嘘ともまこととも分からぬことを言っていました。(実際、その後ドイツ人が何人かやって来たので、あながち嘘というわけでもなかったようですが、詳細は不明です)

H先生は、その後大学を辞めて遺伝子関係のベンチャービジネスを始めました。結果は、なんと大成功!!!。でもそれにあきたらないH先生は、その会社を売り払い、それを資金にして新たに別の会社を立ち上げて、現在もはや私には理解困難なむつかしいことをやっているようです。でも性格はそのまんまで一向に丸くなる気配はありません。

ところで前編で書いた「アライグマ」ですが正確なブランド名は「アイグナー」でした。

 


院長のひとりごと その17


May.31.2003

ドイツ珍道中(前編)

 先日の「ロレックス」のH先生とのお話です。くだんのH先生は前回書きましたが、とても頭のいい先生でした。同時に強烈な個性の持ち主で、集団生活には絶対と言っていいほど馴染まない先生でした(たぶん今も)。でも私はうまが合うらしく、よく行動をともにしていました。 

 ある時、H先生が留学することになりました。留学先は米国ではなく、なんとドイツでした。しかもハイデルブルグ大学だそうです。といっても地理に疎い私はハイデルブルグがどんなところかは知りませんでした。(今でもハイデルブルグがドイツのどこにあるのか分かっていません。)

 丁度東西ドイツが統合されたころのことでした。

 私「ところでドイツに行くそうですが、先生はドイツ語は話せましたっけ?」

 H先生「全然分からん」

そうです。いまだに医者はドイツ語ができると思っている方がいるかも知れませんが、それは誤解です。英語ならともかく、今、ドイツ語で会話ができる医師はほとんどいません。

 H先生「まあ、英語でなんとかなるだろう!!」ふーん、と聞き流していたところ H先生「ところで、とりあえず落ち着くまでは女房と子供は日本に残して単身でドイツに行くんだけれど、心配だからお前も一緒に来てよ」えっ?私も一緒に留学ですか?と思いきや、最初から一人で行くのは寂しいので一週間ほど一緒に行かないかとのことでした。それでもドイツなんて行ったことも無かった私は二つ返事で了解しました。

 当時所属していた医局には「ドイツのハイデルベルグ大学の遺伝子研究所の見学に行く」と適当な理由を付けて許可してもらったような気がします(無断で行ったかもしれないが忘れてしまいました)。

 私も当然ドイツ語はわかりません。文章を見て発音はできるが意味は分からないと行った具合です。さて出発の日、H先生は「女房からブランド品のバッグを買ってこいと言われているんだけれどアライグマとかいうブランドらしいが知っているか?」アライグマ???そんなもん知らんわい。等と訳の分からぬ会話をしつつ成田を出発しました。
 
 ドイツに到着したら大学のボスが空港まで出迎えに来てくれて大学を案内してくれ、それから住居を教えてくれてました。しかしそれからが問題。知人は一人もおらず何が何だか分かりません。

 最初の二日三日は住まいの手入れや雑用で終わりました。 最初スーパーに行って日常雑貨を買いました。そこで「スリッパが欲しいんだけれどスリッパってドイツ語でなんて言うんだ?」とH先生。

 スリッパ!!?

ドイツ語だから「スリッペン」とかでも言うんでしょうかね?といいかげんな会話をしていました。そこでH先生カバンからがさごそと何か取り出します。何と当時出始めであった電子辞書を持ってきていたのです。

「これで調べよう」さっそく「スリッパ」と入力してドイツ語に変換したところ、、、。翻訳されませんでした。結局スリッパは買えませんでした。 

 とにかく掲示物は当たり前ですが全てドイツ語です。チンプンカンプンです。大学の先生方は大抵英語を話せるのでどうにかなるのですが、門を一歩出るともうダメです。小さいお店で何か買おうと思ってお店のおばちゃんに英語で話しかけると指で口の前にバツをつくり、「私は英語はダメです」という意思表示をします。でも案外こちらの言葉を英語と思っていなかったのかも知れません。 スーパーも基本的に英語は通じません。でも親切なおばちゃんたちがよってたかって面倒を見てくれて事無きを得ました。感謝感謝。 

 市内にはチンチン電車が走っていますが、まず乗り方が分からない。適当に切符を買って乗車しました。後で分かったことですがハイデルブルグでは一定の時間内なら一枚の切符で、何回も乗車できるとのことでした。

 最初の頃は道も分からないのでやたらタクシーを利用しましたがタクシーはベンツが多く、感激しながらタクシーに乗っていました(それまでベンツなんて乗ったことが無かったので)。

 
 さて、部屋に戻って洗濯でもしようやということになりました。地下にコインランドリーがあるとのことなので行ってみました。行ってみると確かに洗濯機が並んでいます。しかしそこにあるのは今では日本でもおめにかかりますが、当時は珍しかったが横から洗濯物を入れる全自動洗濯機でした。ここでも使い方が分かりません。説明書きを読んでもドイツ語なのでわかりません。適当に洗濯物と洗剤を入れてボタンを押しました。しばらくして様子を見にいくと、洗濯物は動作しなかったらしく洗剤をかぶった洗濯物が空しく洗濯機の中に鎮座していました。結局手で洗いました。ドイツでは屋外に洗濯物を干す習慣は無いので当然部屋の中に干しました。

 食事はというと近所にはコンビニもファミレスもありません。ここは閑静な住宅街です。仕方がないので買ってきたパンとソーセージ、スープの素の粉を使ってスープを作って夕食です。なぜか毎回私が作っていました。H先生はグースカ寝ていました。
 果たしてこんな調子でH先生は暮らしていけるのでしょうか?

つづく

 


院長のひとりごと  その16

May.3.2003


高所恐怖2

前回の続きです。私は高いところが苦手です。でも一体なぜだろうと考えてみました。
 高いところが苦手と言っても飛行機は全く平気。高層ビルでも窓から外を見るのは全く平気です。観覧車なども平気。いずれも「外に落ちない」という安心感があるからでしょう。飛行機にしろ高層ビルにせよ窓は強化ガラスであり、まず体が落ちる心配はありませんし、観覧車も窓は開いてもすき間は狭く、とても私の体が通り抜ける余地はありません。

 今の住まいは築30年のポンコツマンションの8階です。部屋の中から外を見るのは平気。ベランダから下を見ても、8階は7階より階段状に少し奥まっているので万一転落しても7階のベランダに引っかかるという安心感があるのか大丈夫です。そういえば以前,上の階のベランダから猫が転落しましたが、途中の階のベランダに落ちたので無事だったことがあります。

 ところが今朝、散歩がてらに歩道橋を渡ったら、そこの柵が低く、私のへその高さくらいしかありません。そうすると何だか足下がゾクゾクしていい気はしません。そう高くなくても「何かの拍子に落ちてしまうのでは?」という不安がひょっこり顔を出してきます。そうか、体が落ちる可能性があるところだとダメなんだと納得しました。

 要はいくら高くても転落する可能性が低ければ大丈夫だけれども、極端に高くなくても転落の可能性があるところはダメということです。

 おそらくハンググライダーをやってみないかと言われれば、平気だと思います。転落と飛行は別物だからです。でも鳶職をやれと言われたら絶対無理でしょう。バンジージャンプは多分出来ないでしょう。何だかわけの分からない状況です。

 では一体いつからこんなカラダになってしまったのか?初めて自覚したのは幼稚園の頃、北海道の旭川に住んでいたころです。近所に石狩川があり、そこに旭橋という大きい橋がかかっています。橋の通路を歩いたとき、川面がもろに見えて恐かった記憶があります。ということは先天的に高いところが苦手ということなのでしょうか?でも高いところが苦手ということで特に生活に困ったことは無いし、克服しようと思ったこともありません。

しかし!!矛盾しますが私は高いところが結構好きなのです。飛行機から下を見るのはとても楽しい!!全くもうこうなると訳がわかりません。私っていったいどうなってるのかしらん?


 


院長のひとりごと その15

April.13.2003

高所恐怖

先日、ママが近所の新築マンションを見学したいというのでお出かけしました。(買う気はまるでない!というより、お金がない)


 受付は9階とのことです。それではとエレベータで9階に上がりました。通路にでると、通路は眺めが良いようにと柵が設けてありました。なんと鉄の柵で、そこからは真下が見えます。

 それをみて私は自分が高所恐怖があることを思い出しました。下を見ると吸い込まれそうです。おまけに柵の高さも私には十分な高さとは思えず、強風の日など思わずよろめいて柵を飛び越えて下に転落してしまうのではないかと妄想に駆られてしまいます。ひえー!コワイ!なんでコンクリートの壁にして下が見えないようにしてくれないのか!と恨んでも仕方がありません。思わず柵から離れて壁に張り付いて移動してしまいます。オフィスに入る10メートルばかりの通路がとてつもなくコワイ物でした。何だから歩くたびに足がガクガクするのが自分でも分かります。漸くオフィスに入り扉を閉めるとホッとします。ホッとすると担当の方がさっそくやってきました。担当の方が親切に色々説明してくれます。モデルルームも丁寧に見せてくれました。そして、「どうですか、ここのマンションはお気に召したでしょうか?」

私「こんな高い所にある部屋なんて恐くて住めません
担当の方は、どう反応していいか分からないようで困った顔をしています。そのうち上司と思われる方がいらっしゃいました。最初の担当から事情を聞くと、にこやかにうなずいて「お気持ちはわかりますが、そのうちお慣れになりますよ」と優しく言ってくれました。
私「そんなもん、慣れないわい!(数十年来の弱みが今更なおるわけはないのじゃ!)」
それでは下の階ならよかろうと思いますが、生憎と下の階で希望の間取りの部屋はすでに完売!


ふと周囲を見ると商談中の方は皆私よりもはるかに若い家族が多いようで、おそらくその場では私が一番年配であったような気がします。皆さんは神妙な顔で熱心にお話をしていますが、私はと言うとズケズケと物を言っています。おまけに連れていった我が家のチビはサービスのジュースのおかわりを要求するずうずうしさ。ママも言いたい放題です。まるで静かな商談の輪の中で一組だけ嵐のような家族です。

担当は困った顔をしています。
担当の解釈では「奥さんはまあまあ部屋を気に入ってくれているようでいいのだが、こちらの旦那が高所恐怖症のようで高いところはダメだと困ったことを言っている」と言った具合でした。

話が長くなりそうだったので面倒になった私はおいうちをかけるように「実は昨年秋から、前の勤務先を辞めて新たに事業を始めたばかりです。そのため借金はあっても貯金はありません。(←事実です)
これにも担当は困った顔をしていました。

「それではどうも失礼いたしました。サヨナラ」と言ってすたこら退散しました。

受付で氏名住所電話番号を書きましたが、それから一度も連絡はありません。普通不動産屋はしつこいくらい電話がかかってくるものですが、音沙汰無しです。おそらく先方も「こりゃ時間の無駄だ」と思っているのでしょう。

それにしても購入を断るのに「高いところはコワイからイヤ!」という客はめったにいないでしょうね


 


院長のひとりごと その14

Mar.29.2003

ロレックス

なんの脈絡もなく突然思い出した話を今回は書きます。10年ほど昔の話です。

私がかつて大学院で研究していたころH先生という方がいらっしゃいました。この方ははっきり言って「怪人」と言う表現がぴったりの先生でした。頭は抜群に良く、学生時代ずっと首席でした。それ以上に性格に癖があって、合わない人からはそれこそ蛇蝎のごとく嫌われていました。また山師的なところがあり、あちこち変なところに手を出しては失敗するという「ねずみ男」の様な一面がありました。

 この先生は東南アジア方面が大好きで、仕事か遊びかわかりませんがしょっちゅうアジア諸国を巡っていました。あるときベトナムから帰って来たH先生、ひょいとおみやげ?に時計を買ってきました。なんでもベトナムの露店のようなところで買ってきた「Rolex」の中古腕時計でした。文字盤を見ると時刻によってお日さまとお月さまの絵が出てくるというものでした。「ふーん、またこんなガラクタ買ってきたんですか」と言うと「いいじゃないか、何だか面白かったから」と訳のわからないお返事。それはそれで話は終わって忘れていました。

 ある日、H先生が興奮してやってきました「おい!あの時計、時計屋のおやじの話ではとても高価なものらしいぞ!」と言ってまくしたてます。なんでもたまたま時計屋に用事があって時計屋さんで何気なく例のRolexをみせたところ、店主が「これはたいそう値打ちがあるものですよ」と言ったそうです。
普通の人なら、それを聞いて喜んでお終いという気がするのですが、そこは普通でないH 先生。一儲けしようと再びベトナムに飛んでいき、かの中古のRolexを10個ばかり買ってきまいた。(飛行機代の方が高いのではという話は、さておいて)

 買ってきたRolexの時計を並べて、「これは全部でいくらくらいになるのかなあ?」とニヤニヤしています。そこで私「でも、何でベトナムにこんなにたくさんRolexがあるんですかね?もしかしたらベトナム戦争の時のもので戦死したアメリカ兵の死体からもぎ取ったものとかではないんでしょうね?」H先生は「いや、きっとベトナム戦争終結時に外国に脱出しようとした金持ち達が売り払っていったんじゃないかな?」などと、とめどもなく空想はふくらみます。

「ところで、一体いくらぐらいするんですかね?それにどうやって売るのですか?」と聞いたところ「お前、どこか知らないか?」となんともいい加減なおことば。そういえば偶然、高円寺駅前に当時中古のRoLexなどを扱っているお店があるのを思い出しました(当時はまだバブルの余韻が残っており、その類いのお店が結構ありました。現在もあるかどうかは不明)。
よし、それじゃそこに行こうということになりました。面白がって他の先生方もくっついてきました(なんと助教授の先生までくっついてきた)。

 高円寺駅前に行き、お店を見つけ出しました。皆の頭の中は欲にかられて興奮状態です。「ところでお店の人にはなんて説明するんですか?まさかベトナムで買い集めてきたなんていうんじゃないでしょうね?そんなこと言うと、きっと死んだアメリカ兵から略奪したものではないかと思われて気味悪がられますよ?」と言うと「大丈夫!ちゃんと考えてある」との返事。

 お店の扉を開けると若い店員が数名います。皆、腕にRolex等の海外の高級時計を着けています。一方こちらは研究所の面々なので、ネクタイはおろかスーツも着ておらず、皆ジーパンのラフな格好であり、怪しい一団に見えたことでしょう。

あのー」さっそくH先生が言い出しました「いや、なに別に売りたいとかそんなんじゃないんだけど、実はじいさんが先日亡くなったんだけど遺品を整理していたらRolexの時計がたくさん出てきたんですよ。死んだじいさんは以前、世界中を回って仕事をしていて、各地で時計を集めるのが趣味だったんですよ。それで別に売りたいって訳じゃないけれど(何回も言わんでくれ!)どのくらい価値があるか知りたいんで、よければみてほしいんですよ」
 なんともわかったようなわからないようなへ理屈!でもお店のお兄さんはどれどれと時計を見てくれました。

そして「うーん、価格が付けられませんねえ」とぽつりと一言。
えっ!そんなに高価なものなのだろうか?と私は思わず興奮してしまいました。その思いは皆同じようで、H先生は思わず身を乗り出しています。
「えっ?価格が付けられないってどういうことなの?」とH先生(嬉しさで顔がニコニコ)
「いやあ、これは価格が付けにくいですね」と店員さんと困った?顔
興奮したH先生は「そんなこといわずに値段を教えてくださいよ」

そこで店員さん
「いや、これは全てニセモノなんですよ。だから価値はないんです。でもおじいさんの形見であるならば、それこそ値段はつけられない大事のものでしょう」

一同唖然。

思わず「全部にせものですか?」と食い下がると
「全てにせものです。でもこいつの時計バンドは本物かもしれません」とひとつの時計をとりだしました。

とどめをさすように「いやあ、これだけたくさんのにせものを見せつけられたのも、なかなか無いことですねえ、へどが出そうですよ。でもおじいさんの形見と言うことだから大事にしたほうがいいですよ」
と慰めの言葉をかけてくれました。

帰り道、一同ほとんど無言でした。

その後の「おじいさんの形見」であるRolexの行方は知りません。

このH先生、他にも色々この類いの話があります。きりがないので今回はこの辺で。


 


院長のひとりごと その13

Mar.10.2003

インターネット接続大作戦

自慢ではありませんが、私はインターネットを始めたのは一般市民としては早いほうだと思っています。1992年ごろからパソコン通信を始め,94年頃にはすでにモデムを使ってネットに接続をしていました。当時はまだブロードバンドなんて夢の夢で一般回線にモデムと呼ばれる機械を接続して、電話代の請求書をおびえながら楽しんでいました。

 時代は変わり世の中は高速回線が主流になりました。パソコンに対して特に興味の無い方も何気なくADSLとかに接続しています。私はと言うと前の勤務先の病院はLANが完備されていたので病院では高速回線を使用していました。ただし、自宅は諸事情により相変わらず通常のダイアル回線でした。
 
 開業するにあたり、せっかくだから高速回線を自分で持ちたい!と思うようになったのは自然な流れだと思いました。
 
 さて、せっかくなので以前書きましたが、患者さんへのサービスを兼ねてケーブルテレビに加入すればネット接続も高速で可能であり、それがいいやなどと安易に考えていました。工事費も最近はよくチラシで「期間限定、1万円で全て出来ます」と広告が入ってきます。きっとそんなに費用もかからないであろう。よし!それでは!と、とりあえず問い合わせてみることにしました。「えーとこの辺のケーブルテレビは確か大手のJ-COMが入っていたなあ」と思い、J-COM のホームページを見てチェックしました。するとどうしたことでしょう、「三鷹市北野地区はサービスエリアではありません」と非情なお返事!はっきり言ってショックでした。このクリニックの周囲は何もなくて田舎じみていますが、あまりといえばあまりの返事。しかし無いものは仕方がないので適当に調べ直すと、「三鷹ケーブルテレビ」というのがありました。なんだ、これがJ-COMの代わりになっているんだ、と納得しました。読んでみるとなんでもショウルームが三鷹駅の近く?にある。それじゃ三鷹の地理に慣れるためにも一回行ってみようと思い出かけました。丁度この日は三鷹駅前に出かける用事があったのです。ろくに場所も確かめずに行きました。その日は真夏の8月でした。熱射病の方が多い時期でした。地図を見ると駅からそう遠くないと思っていたのは勘違いで、炎天下の中30分近く歩きました。汗びっしょりになって到着。おまけに工事などで結構な金額がかかることが判明!これじゃだめだあと思い、すごすごと退散。ところが軽い熱射病になったらしくフラフラします。帰りはさすがに歩かずバスで帰り(タクシーでないのが悲しい)、そのまま帰宅し暫く水風呂につかっていました。

 次に安価という点では一番のADSLを考えました。ところが人に相談すると「あそこは電話局から遠いから、多分ダメだよ」と言われてしまいました。確かにうちは三鷹市なのに市外局番は03です。(通常三鷹市は0422)文字通り番外地!こりゃダメだと保留にしました。

 今度は広告を見ていると無線を使ったSPEEDNETというものがありました。ネットで確かめると一応OKらしい。でも念のために係の方が受信可能かどうか確認に訪れるとのことでした。ここは周囲に高い建物もないし今度は大丈夫かな?と密かに期待しました。数日後係員の方がみえて電波状況を測定し始めました。すると「申し訳ございません。電波が届いてきません」とのお言葉。ああ、ここはそんなに田舎なのであろうか??係員の方は申し訳なさそうに帰っていきました。

 暫くはISDNでやっていましたが、どうにも不便です。結局ダメで元々でADSLにしてみたら、問題なく接続できました。なんだ、最初からこれにすればよかったんだと肩すかしでした。でも12Mのサービスを申し込んだはずなのに実際の速度は1.5M程度。まあ電話局からの距離を考えれば仕方ないですね。

 本日、新聞のチラシに東京電力の光ファイバ通信の広告が入っていました。「ADSLの約10倍のスピード、100Mbpsで超快適にインターネット」、などとさかんにあおっています。
「東京23区と武蔵野市、三鷹市までエリアが拡大」ともあります。でも次に以下の一文が、、「一部の地域を除きます」何となく我がクリニックの場所は、その「一部の地域」のような気がします


院長のひとりごと その12

Feb.18.2003

ないたあかおに

 先日、大手の本屋に寄ったついでに子供に絵本を買おうと思い、絵本売り場に行きました。あれこれといろいろありますが、以前から欲しかった「ないたあかおに」の本を買うことにしました。うちのチビにはまだが早すぎるかもしれませんが、自分の趣味もあり買いました。確か小さい頃この話を読んで涙した記憶があります。本屋で思わず本を手に取って読んでみました。読んでみると今になっても涙が出てきます。40をすぎたおじさんが絵本売り場で涙しているのを見られたら「このおじさんおかしいんじゃない?」と思われてしまいます。

ハッと気がつくと横に店員のキレイなお嬢さんがいます。これはまずい!みられたか?それとも「絵本を見て感動しているステキなおじさま」とでも思ったのでしょうか?でも彼女の口から出た言葉は「お客さま、ここでは靴をお脱ぎ下さい」。気がつくと私は子供用の靴を脱いで本を読む場所に入り込んでいたのでした。

 ところで絵本で泣かされたことは何度かあります。「かわいそうなぞう」という第2次大戦末期の餓死させられた上野動物園の象の話や、最近では「さよならエルマおばあさん」などは今でも涙なしでは読めません。

テレビなども泣いたことがありますが,私の記憶で一番昔のものはアニメの「おそ松くん」で「チビ太の金庫破り」というタイトルだったと思います。確か昭和41年頃ではなかったと思いますが。もう泣いて泣いて、親に「なんでおそ松くんで泣いているの?と笑われたことを覚えています。それにしても、もう少しいわゆる「名作」で涙したかった!。せめて「フランダースの犬」、一歩下がって「みなしごハッチ」のような番組でありたかった!!(どちらもその頃はすでにアニメを見なくなっていました)。誰に話しても泣いた話が「おそ松くん」では笑われるばかりなのです。

 帰宅して夜、お布団の中でt「ないたあかおに」を子供に読み聞かせても、まだ理解できないようで興味を示してくれませんでした。親のひとりよがりだったかもしれませんね。


院長のひとりごと  その11

Jan.30.2003

インフルエンザワクチン副反応

巷ではインフルエンザが流行っています。開業医はモロのインフルエンザの患者さんと接するので自分自身へのワクチン接種は必須と思っています。
 ところでインフルエンザワクチンって人によっては接種した場所が赤く腫れ上がる人も少なくありません。私自身、一昨年は腕が真っ赤に腫れ上がり「すごいなー」と我ながら感心したことがあります。一般の方々からもときおり腕が腫れたと問い合わせが有ります。大人でしたら、「大丈夫でしょうか?」と聞かれても即座に「三日ぐらいで良くなりますよ」と答えるのですが、これが子供ですと親が血相を変えてくるので、あまり安易に受け答えできません。


 昨年、我が家の5歳になるチビにインフルエンザワクチンを打ちました。11月の金曜日のことでした。


 翌日の土曜日の夜になりました。チビと一緒にお風呂に入ろうとし、子供の腕を何気なくつかむとムニャッとした感触があります。あれれ?と思って腕を見ると、あらま!ワクチンを打ったほうの腕が真っ赤に腫れ上がっています。肩から肘まで見事に真っ赤になって、腕がパンパンに腫れています。これはスゴいなあ、よそ様の子供だったらきっと問い合わせの電話がかかってくるなあと思うとともに、「まずい!ママに見つかったら何を言われるかわかったものじゃない!!」と震え上がりました。もしみつかったら「違うワクチンを打ったんじゃない!?」とか「量を間違えたんじゃない?」とかあげくの果てに「やぶ医者!ヘボ医者!」とののしられかねません。これはまずいと思い、お風呂から上がると、そそくさと子供にパジャマを着せて、ママに見つからないようにしてさっさと寝かせました。


 日曜日になりました。朝、子供の腕を触ると、相変わらずパンパンに腫れています。さわると昔給食にでた「あげパン」のような感触です。見ると、痒かったのでしょう、ひっかき傷が出来て、場所によっては血がにじんだ痕があります。こんなのママに見つかったら、こりゃタイヘーン!!と、普段は子供には自分自身で着替えさせるのですが、この日はパパが素早くお着替えさせてやり、ママには腕を見せないようにしました。その晩も当然、子供のお風呂は私の担当です。腕を見せないようにお風呂場で服を脱がせ、お風呂から上がるとそそくさと寝巻きを着せて腕を隠しました。チビは時折、「腕がかゆいよー」とのたまっていますが、ママには聞こえないように話題を変えたりしてごまかしていました。


 月曜の朝になりました。少しは腫れが引いてきたようです。よし、もうひと息!と、子供の着替えを手伝ってやり、その晩も早めに帰ることが出来たので無事、お風呂は私が入れ ることが出来ました。


 火曜日の朝になると、大分腕の方も良くなり一安心。もうママにいつ見つかっても「ちょっと腫れちゃったようだねー」で済ますことが出来ます。しかしながらそれからしばらくはパパがお着替えさせてくれるものと勘違いしている子供は「はーい、パパお願い」と言ってすり寄ってきます。教育上はよろしくないですね。

 ママにもワクチンを打ったところ、ママも腕が腫れましたが「そんなもん三日もすれば良くなるよ」といって軽く受け流しました。

 ママが、この顛末をこの書き込みを見ると発覚するでしょうが、彼女はホームページに全く興味を示さないのでしばらくは大丈夫でしょう、と信じたい。


院長のひとりごと  その10

Jan.17.2003

ケチケチ大作戦


 前回しみったれた話を書きました。今回も引き続きしみったれた話です。お金がない身としては少しでも節約せねばなりません。どのくらい節約せねばならないか?かつての旧帝国海軍の零式艦上戦闘機、通称零戦は設計時に軽量化のために重量の百万分の一,すなわち10グラム単位まで軽量化に努めたとのことです。それにならって当院も予算の百万分の一、すなわち10円の単位まで節約しよう!なんてことは考えませんでした。
 まあとりあえず、患者さんと直接接するものは多少高価でもしっかりしたものを選んだつもりです。その分、他のものは極力中古品でそろえました。院長室の備品は全て中古。控室のものも然り。パソコンも秋葉原へ行って液晶モニタつき1セット10万円程度でそろえました。なんて偉そうなことを言っていますが半分は趣味の世界です。私は元々リサイクルショップなどを見るのが大好きで、役に立つ、立たないよりも面白そうか、そうでないかが判断基準となってしまうのです。備品にしても実用一点張りというより何となく面白そうと言ったデザインのものが多く、パソコンに関しては、たまたま入った店のお兄ちゃんと話が合って勢いで注文したというところも有ります。でも開業前は100円ショップには大分お世話になりました。プリンタの用紙などは今でも院長自ら格安のものを求めて町をさまよっています。あちこち見て歩くと安売りを看板にしているお店が必ずしも一番安いというわけではないことがよく分かります。しかしながらあまりさまようと、つい余計なものを買ってしまいかえって高くつくということも有ります。
 その他節約するとしたら自分自身の身の回りのことです。元々酒も煙草もやらないので(酒は体質的に飲めないのです)そうした出費は有りません。お昼は幸い奥さんが愛妻弁当ならぬ恐妻弁当を作ってくれますので助かります。服装は奥さんからもっと服を買いなさいと怒られるくらい無頓着。雑誌は立ち読みで済ませます。なんだこれ以上自分自身に関しては節約するところはないじゃないかと思う次第です。一方、趣味のパソコンを買い替えたいなーと思ったり、デジカメも新しいのが欲しいなーとか思うのですが金額が少なくないので今は自制が効いてくれています。そう考えると私は普段はお金を使いませんが使うときはドカンと使うほうなのかも知れません。
 そういえばホームページ作成料金を節約するという大義名分で、ホームページは自分で作成しているのですが、最近は、より快適なホームページ作成環境を目的としてパソコンの買い替えを企んでいます。これではかえって高くつきますね。なんてここまで書いたら偶然、新型のノート型パソコンが発表されました。それと同時に欲しかったモノが値下げされました。欲しいなあー、でやっぱり我慢しよう。少なくとも春までは我慢しましょう。


院長のひとりごと  その9

Jan.9.2003

理想と現実

開院にあたり、当初は外装はどうしよう、内装はどのようにしようと色々考えました。とりあえず自分で出来る範囲のことを考えました。
 
受付にはできれば大型のプラズマディスプレイをデンと置いて、ケーブルテレビと契約し名画やスポーツ、子供向けに各種アニメを放映する。または有線放送で音楽を流す。さらにパソコンも置いてインターネット常時接続として自由に使っていただく
 電話予約システムを入れて、限りなく待ち時間を短くする。また待ち時間が推測できるように銀行の受付のように順番を表示する。電子カルテを導入してペーパーレスにする。
点滴を行うときも点滴専用のリクライニングシートを設置し、テレビなど見ながら治療を受けられるようにする。
 院長室にはきちんと応接セットを置く。また休憩時に横になれるようにソファベッドも欲しい等と止めどもなく夢?はふくらみました。

 いざ準備に入ると設置スペースと何よりも予算という厳しい現実が待っていました。ケーブルテレビは回線を開くだけで7万5千円と聞いてあえなく中止。プラズマディスプレイ?とんでもない!中古テレビで十分!そして何よりもしばらくはそんなに待たせるほど患者さんは来ません!ということになり、それじゃテレビを置いても仕方がないということになりテレビも中止となりました。(先日NHKが受信料の集金にいらっしゃいましたが、「うちにはテレビは有りません!」と言ってお引き取り願ったところ、不思議そうな顔をしていました。)パソコンはそのうちおきたいと思いつつ保留のまま。 有線放送も聞くのは患者さんより受付の女の子ばかりとなってしまうので、しばらくは不要。どうしてもというときはラジカセで十分ということになりました。そのラジカセもまだありません
 電話予約システムにしても、現実として少ない患者さんを待たせることはしばらくは有りえないということになり、患者さんが増えたら導入を考えることにし、これまた保留。電子カルテは格安ともいえるシステムを取り入れたので、当初の予算の十分の一以下に抑えました。
 リクライニングシートは設置するスペースが無い!と言い聞かせて中止
 院長室は物置と化しており、来客は診察室で済ませることにし応接セットも却下。休憩時どうしても仮眠をとりたいときは点滴ベッドに横になればよいということでソファベッドも当然中止。現実としては疲れたら椅子に座ったまま寝ています。(医者を長年やっていると、いつどこでも寝ることが出来るという体になりました)

 何だかしみったれた話ばかりであり、何か景気のいい話でもしたいのですが現実はこんなものです。


院長のひとりごと  その8

Jan.5.2003

夫婦喧嘩

先日、急にすだれが必要となり年末の町に買い物に行きました。大手の雑貨屋?に行ってみても「季節的なものなので今はありません」とのお返事。あちこちお店をのぞいてみても売っていません。困ったなと思っているとハッと気が付きました。我が家の近所に小さい小さいお店ですが「せいろ、竹細工」と手書きの看板をかがけたふるーいお店があるのを思い出しました。29日だったのでもうお休みかなと思いましたが一応行ってみました。
 行ってみると幸いにお店は開いていました。お店はぎっしりと竹細工というか竹のほうき、せいろ、その他モロモロがつまっています。奥とは障子で仕切られているなんとも懐かしい風景のお店です。こんなお店にはなんだかお宝がありそうな個人的にはとっても面白そうなお店です。きっと昔気質のおやじさんがいるにちがいない!ワクワクしながら障子の奥に声をかけようとしたところ、、。「バカやろう!」と怒鳴り声!その後には何を言っているのかよく分かりませんが、ものすごい勢いで怒っているおやじさんらしき人の大声が聞こえてきます。一体何がおこったのでしょうか???その次の瞬間、奥さんと思わしき女性の怒鳴り声が!「何いってんのよ、それじゃ一体どうしろっていうのよ!!」あとはまた何を言っているのか分かりませんがすごい迫力で言い返しています。とにかく夫婦喧嘩をしているのは間違いないようです。とにかく切れのいいタンカをきっていて、最初はテレビドラマか何かかと思いましたが、どうも現実のようです。何を言っているのか分かりませんが、あまりのキレノ良さに録音して保存しておきたいと思ったほどでした。でもそのまま放置しておくと次にはお皿が宙を舞って、さらにちゃぶ台がひっくり返るのではないかと心配になってきました。それよりも何よりも私の買い物ができなくなり、手ぶらで帰ると今度はこちらがうちの奥さんからどんな仕打ちに遭うか分かりません。そこで意を決して「すみませーん」と声をかけました。でも中はけんかに夢中なようで反応なく、相変わらず怒声の嵐です。さらに「すみませーん」と声をかけます。もしかしたら「うるせえ!こちとら忙しいんだ!けえれけえれ!」と逆にこちらも怒られてしまうのではないかと心配になりました。それでも三度ほど声をかけると、ようやく齢70は遥かに過ぎていると思しきご主人が顔を出しましてきました。こちらは半分びくびくしていましたが予想外に非常に愛想良く「いやいやどうも失礼しました」と先ほどの勢いは何処?といった具合でした。買い物も理想的なものを手に入れることができ、感謝感激雨あられ(こんな言い回しは若い人は知らないでしょう)。そうしていると尋ねもしないのにご主人はしゃべりはじめました。「いやあ、娘たちが正月の用意をしてくれるって言うんだけれど、自分達でできる間は(体が動く間は)子供たちに頼らないで自分達で用意をすべきだって、それから言い争いになっちまってね」←(もう少し江戸っ子らしい口調でした)と意外と?平凡なきっかけの夫婦喧嘩のようでした。ちょっと拍子抜けでした。その後も私にしきりに同意を求めますが、私は「はあ、そうですねえ」と曖昧な返事しかできませんでした。でも最後に私は思わずご主人に「いやあ、私もおやじさんと同じくらい威勢良くカミさんを怒鳴ってみたいもんです」となんとも情けない言葉が出てしまいました。

ああ情けない。


院長のひとりごと  その7

Dec.23.2002

地方言語

 私は父親が銀行員だったこともあり仕事柄転勤が多かったので、子供の頃は全国を転々として過ごしました。幼稚園は2ヶ所、小学校3ヶ所、中学校2ヶ所。北は北海道の旭川から南は兵庫県の西宮まで転々としました。おかげさまで標準語のほかに北海道弁、千葉弁、関西弁などを理解できます(バイリンガル真っ青?)

ところで私の奥さんは生まれも育ちも茨城の古河です。本人は標準語をしゃべっているつもりですが、こちらからすると立派な茨城弁です。しかも本人は方言をしゃべっている自覚が無いので、時々意志の疎通が困難になります。例えば
「それを、おさえて!」

なんとなく「おさえて!」と言いたいのでしょうが、間に入る「ま」はナニ?本人は、「これは標準語よ!」と主張しますが、多分違うと思う。ちなみに彼女の叔母も「おさまえる」を連発するので、おそらく古河方面の言葉なのでしょう。他に、かがむことを「ずぐむ」とか、子供がまだ赤ん坊の頃、おむつから漏れ出すような大量のおしっこをしたときなど「おむつをぶんぬいた!」とか色々言います。いずれも奥さんは「どれも標準語。みんな言っているよ」と主張します。でもやっぱり違うと思う。

奥さんの実家は古河の駅のすぐそばで、彼女からすると「駅前の交通便利な都会」とのことですが、子供の頃は「日通のおじさんが、はだか馬に乗って荷物を届けに来た」というところで、あまり都会らしくありません。
 以前、義母がやってきて子供のオモチャを見て「これは、さんぎっちゃんなのね」と言っていましたが、これは実の娘である奥さんもわからなくて、未だに理解不能な単語です。
 何にせよあまりに堂々と「これは標準語よ!」と主張されるので私もどれが方言でどれが標準語かわからなくなりつつあります。(まあ私も両親が北海道出身なこともあり、標準語を話すわけではありませんが)

 ところで先日も、「子供がオウカンに飛び出すとアブナイから」と言い出したので、「オウカンって何?王冠とも違うし、また古河の言葉なの?」と聞いたところ、例によって「どういう字を書くかは知らないけれど標準語よ!」と主張します。また始まったぞと思っていましたが、何となく気になって広辞苑を引っ張り出したところ「おうかん:往還=広い往来の多い通りのこと」と出ているではありませんか!

いやあ参った参った私が知らないだけでした。奥さんは得意満面! でも話し言葉で「往還」なんて使うんですかね? 古河恐るべし! 理解への道は遠い?


院長のひとりごと  その6

Dec.5.2002

homepageについて

 開業するにあたり、広告にはずいぶん費用がかかりました。その中でホームページ作成に関するものがありました。プロにホームページ作成価格を尋ねたところ「ピンからキリまでありますが、30万円くらいからですかね」という返事が返って来ました。
 
「さ、さんじゅうまんえん!」ジョーダンじゃないよ!果たしてどれだけ宣伝効果があるのか不明なものに、そんなお金をかけるゆとりはあろうはずもありません。でもせっかくなのでホームページは欲しい。それでは自分で作ろうということになりました。さっそくパソコンショップに行って、ホームページ作成ソフトと解説本を買ってきました。はたして開業準備の傍ら、ホームページ作成を始めました。幸い私の契約しているプロバイダは100メガまで無料でホームページを掲載してくれて、アカウントも希望するものが取れました。かくして準備はできたので、のんびりホームページを作っています。結果は文字ばかりで、洗練という言葉とは縁遠いものを皆様のお目にかけています(まるで30年ほど前の地方のスーパーのチラシみたいです)。
 でもふと思いました。一般内科医の対象の多くはお年寄りです。果たしてお年寄りの方、特に70歳以上の方はインターネットに接続してホームページを見る方ってどのくらいいるのでしょうね?
 一方、特に小さいお子さんがいらっしゃるご家庭からのアクセスはあるようです。ご不明な点などありましたらご遠慮なく問い合わせて下さい。


院長のひとりごと  その5

Nov.16.2002

一期一会?

私は三鷹市医師会に所属しています。
私の出身大学は日本大学です。日本大学医学部は板橋区にあり、三鷹からもそう遠くなく、日大自体も一応歴史は有るので、当初より日大OBが医師会にはおられるであろうと予測していました。三鷹市自体、人口約16万と大都市というわけではないので、気が利く人ならあらかじめOBを調べて、開業前に挨拶回りでもしていたでしょう。でも、そういうことに気が利かない私は大学OBがいるらしいという情報は持っていましたが、OBへの挨拶回りなどは実行はしていませんでした。
 ところが、医師会に参加してからOBの方々から「日大の後輩が開業したらしい」という情報がはいったらしく、「食事でもしましょう」という話が出てきて、話はどんどん進み先日、吉祥寺のとあるお店に招待されました。
 年に数えるほどしかネクタイを締めたことが無い私も、さすがにこの日はネクタイをしていきました。
 実際、お会いすると、1人(甲先生としておきます)は何と同じ医局の大先輩でありました。気さくな先生で親切にしていただき、ホッと致しました。
 もうお一人、先生(以下、乙先生とします)がいらっしゃいました。寡黙な先生でニコニコしています。どこかで見たような気がするなあ?と思いつつ、しばらく話をしていましたが、ふと尋ねてみました。
 私「先生のご専門はなんなのですか?」
乙先生「ケーサツ病院でしばらく働いたあと、病理にいて、、、」
ムムッ!ここで私の頭の中は走馬灯のようにぐるぐると回転するものがありました。
私「先生は昭和57-58年ごろ、日大の病理学教室にいましたでしょうか?(焦って日本語がおかしくなってきている)
乙先生「その頃確かにいたけれど、それがどうしたの???」
私の頭の中はグルグルと回転を続け、ついにスピンアウトし、ひとつの結論に達しました。
「先生は、私の学生時代、病理学実習で私が出来が悪くて「君い、もっと勉強したほうがいいよ」と叱ってくれた乙先生ではありませんか!!!!」
これには乙先生もビックリしたようでした。でも乙先生は覚えていないということでした。でも私はしっかりおぼえています。デキの悪い私をしかったのは ア.ナ.タ. です。甲先生も、これには大笑い。
 おかげで、この後はすっかり打ち解けて話がはずみました。

人間、どこで知り合いに会うかわかりませんね

ところで当時、病理学実習は結局再試験を受けるはめになったと記憶しています。


院長のひとりごと  その4

Nov.4.2002

ミサイル
 
 開業するにあたり、準備をしているとあちこちから問い合わせが来ました。人材バンク、広告宣伝関係、物品販売業者、清掃業者などです。それぞれ対応すること自体が初めてであったので、それはそれで非常に面白かったです。 

9月の開業準備中のある日、電話と椅子しかないクリニックで雑用をしていると一件の電話がかかってきました。「はい、もしもしイリエです」と受話器を取ると先方から「こちらは自衛隊のナントカです」とのお返事。えっ???じぇいたい??自衛隊には用はないし、思想的なものも何もないし、思わず「どちらへお電話をおかけでしょうか?何かの間違いではないでしょうか?」と言ってしまいました。ところが先方は「いりえクリニックの院長先生ですね?」とおっしゃられる。院長は確かに私しかおりません。今でもそうですけれど「院長先生」と言われても素直に体が反応しません。とにかくよーく話を聞いてみると、何でも自衛隊では関連病院から毎年、相当数の看護婦さんの退職者がいるので自衛隊の新聞に看護婦さん募集の広告を載せてみませんか?という内容でした。何となく話が面白そうでしたので担当の人に来てもらうことにしました。約束の日、現れたのは普通の人でした。何となく、いかにも自衛隊!という方でも来るのかとひそかに期待していましたが、ちょっと期待はずれ。お話を聞くと看護婦さんの斡旋は出来ないが、新聞に看護婦募集広告を載せてみませんか?(用は広告募集のお話し)ということでした。見本に自衛隊の新聞というのをもらいました。内容はなんてことないので割愛しますが、広告が面白かった。「空対空ミサイル」の広告などありました。こんなもの出しても一般の自衛官が購入できるわけでなく誰が見るの?でもミサイルの広告なんて初めて見ました。「当社のミサイルは百発百中!他社ミサイルとの性能比較!」なんて文があれば、とても面白かったのにさすがにそんな文はありませんでした。まあ多分企業の協賛の広告なのでしょうが、さすがに驚きました。そういえば10年前の湾岸戦争後に米国の学会に行ったとき、どこかのメーカーが当時話題であったパトリオットミサイルがイラクのスカッドミサイルを迎撃する写真を載せて「我が社のテクノロジーはパトリオットミサイルにも応用されています」とかいうような広告をみかけました。これはとても日本では考えられない広告だと思います。でもその後パトリオットミサイルは当初言われたほどの命中率は無かったようなので、逆効果だったかもしれませんね。
 開業してからはインタビューと称し芸能人と対談して、
写真を雑誌に載せるので取材費をくださいというのもありました。取材だったらそちらから取材費を払うものでしょう。これも取材の名を借りたビジネスなんでしょうね。無論、お金がない当方としてはお断りしました。あとで聞いたら新規開業医のところにはこの手の電話が多いそうです。でも知り合いの医師の中には喜んで取材を受けて医院に芸能人と握手をしている写真を飾っている方もいるので、それぞれ当人の考え方なのでしょう。


院長のひとりごと  その3

Oct22,2002

寒かったり、雨が降ったり、なま暖かったり変な天気が続きます。皆様お体の具合はいかがでしょうか?開業して個人的に感じたことは、開業医って本当に運動不足になりやすいってことですね。病院に勤務していた頃はあちこちの病棟を歩き回って、外来に行って、おまけに医局は別の棟にあったりして、そこそこ移動を強いられてきました。ところが開業すると、ほとんどデン!と椅子に座っております。これでは体がなまってしまいます。かつての同僚たちが開業すると次々に太っていたのが改めて実感できます。患者さんには「運動しなさい」とか「やせなさい」とか言っているのに大いなる矛盾ですね。紺屋の白袴状態です。もともとじっとしているのは苦手なので、そろそろ体を動かさねばと思っています。でも私はゴルフとかはやらず、違うことをやっています。

 ところでアクセスカウンタが気が付いたら100を超えていました。まだサーチエンジンにもろくに登録されていないのに見てくれる方がいらっしゃるのですね。ありがとうございます。そう言えば三鷹市医師会のHPにもしばらくは載りそうも無いです(三鷹の医師会には加入させていただいています)。


院長のひとりごと  その2

Oct14,2002

今週からインフルエンザワクチンの接種が始まります。市町村からの助成で高齢者は割引が受けられます。もっとも、これはその市町村の人が対象になっています。ところが当院は道路の反対側は世田谷区、裏に行って少し入ると調布市になるという少し複雑な位置にあります(当院は三鷹市です)。たとえば調布の人が当院でインフルエンザワクチンの市からの助成を受けようとすると、調布の市役所に行って他の市町村への接種依頼書とかいうものをもらってくる必要があるのです。なんでそんな面倒なことしなくてはならないのでしょうか?それでは当院で依頼書を取り寄せようかとしましたら、「接種を受けようとする本人か代理人以外はダメ!」とのお返事。ここで文句を言っても始まらないので、これ以上の交渉はあきらめました。

 でも当院では世田谷、調布など他の行政区域に在住の方にも三鷹市の方と比べて不利益にならないように対応いたしました。皆様ご利用下さい。

 ところで料金ですが、広告規制に抵触する可能性があるとのご忠告を受けて、ここでは掲示しないことにしました。申し訳ありませんがお問い合わせ下さい(この広告規制と言うのもよく理解できないものですが、、、)

一方、健康診断に関しては、これは当院の努力だけではどうしようもないのでご容赦下さい。(某区に問い合わせたら、他の行政区で検診を受けられる制度なんて無い!と、はなからあいてにしてくれませんでした)


院長のひとりごと  その1

Oct13.2002

はじめまして院長の入江です。開業してようやく一週間なので「院長先生」と呼ばれても「私のことでしょうか?」とまだ頭が反応していません。皆様よろしくお願いいたします。HPはまだまだ未完成です。写真ものせたいし、タイムテーブルが崩れたままとか課題はたくさんあります。診療と子育ての合間に作成しておりますのでなかなか進みません(診療はヒマだろ、との声も聞こえますが、、、。)